セレナは、ふかふかの絨毯に包まれた椅子にそっと腰を下ろしていた。
初めて袖を通した柔らかなドレスの感触。
ほんのりと香る香油の匂い。
さっきまでの出来事が、まるで夢だったかのように、頭の中で何度も繰り返されていた。
(……私が、こんな部屋で。こんなドレスを着て。こんな風に迎えられるなんて)
見慣れぬ景色に囲まれながらも、部屋の窓から差し込む夕暮れの光が妙にやさしく感じられた。
静けさの中、セレナはぽつんとひとり、胸の奥に浮かんだ想いをそっと抱きしめていた。
――コン、コン。
小さなノックの音が、静かな空間に溶け込むように響いた。
「……どうぞ」
扉が開き、そこに立っていたのはレオンだった。
変わらぬ丁寧さを保ちながら、ゆっくりと室内に足を踏み入れる。
「お部屋は、快適でしたか?」
「……はい。とても、素敵で……ありがとうございます」
「それは良かった」
レオンの視線が、セレナの衣装にふと触れる。
思わずセレナは膝の上で指を重ね、少しだけ姿勢を正した。
「先ほどは急な話でしたが……改めて、ようこそ。セレナ・アルシェリア嬢」
その言葉には、形式だけではない温もりがあった。
少し間を置いて、セレナは声を落とす。
「……あの、婚約期間もなく結婚式もしないという件、あらためて……ご迷惑ではなかったでしょうか」
彼の誠実な態度に触れるほど、不安が小さく顔を出してしまう。
あれほど望んだはずの選択なのに、胸の奥は少しだけざわついていた。
レオンは首を横に振りながら、やさしく答えた。
「その件については、すでに手続きも済ませています。神殿と皇帝陛下の承認も得ていますので、どうかご安心ください」
「……そうだったんですね。本当に、ありがとうございます。無理を通してしまったのに……」
「とんでもありません」
短いその返答に、セレナの胸がきゅっと締め付けられた。
光を受けた彼の横顔があまりに穏やかで、しばし言葉を失いそうになる。
「実は……その手続きの際に、あなたのお名前もすでに変更されています」
「……え?」
レオンは静かに、けれどはっきりと告げる。
「正式には、あなたはもう『セレナ・アルシェリア』ではありません。“セレナ・ノクティス”です」
一瞬、時が止まったようだった。
響いた名前に、自分がどこか別の存在になったような、ふわりとした感覚が心を満たしていく。
(……もう夫婦になってるんだ……)
そして、ほんの少しだけ――どうしてこんなに優しくしてくれるんだろうという戸惑いにも似た疑念が浮かぶ。
「……あの、本当に……こんなにもしていただいて、私に何か……果たさなければならない“役目”があるのではないかと……」
言葉にしながら、自分でも戸惑っていた。
まるで、これほどまでに優しくされたことが――信じられないような、そんな気持ち。
(普通ならなにか……取引とか裏があると思うかもしれない。)
でも、彼の瞳には、そのような様子は見受けられないくらいまっすぐだった。
それでもなお、自分の中に“理由を求めてしまう”心があるのは、与えられることに慣れていないからだ。
無償の好意を受け取ることに、どこか不安を感じてしまうのは――もう、癖のようなものだった。
「……詳しい話はもう少しあなたがここに慣れてからお話したかったのですが……」
レオンは一瞬言葉を選ぶように視線を落とすと、静かに顔を上げた。
「けれど、今の貴方の言葉を聞いて……やはり、今伝えるべきだと思いました」
そこには、戸惑いも、迷いもない――ただまっすぐなまなざし。
「……貴方も、耳にされたことがあるかもしれませんが、公爵家には、“呪い”がかかっています」
一瞬、レオンの横顔に影が差した気がした。
「実は、それは単なる噂ではないんです。最近は特に体調が思わしくなくて。それで……求婚状を出したのは、その呪いを解く手助けをあなたにお願いしたかったからなんです」
「……手助け……?」
私は音を立てて息をのんだ。
「そ、そんな……私に、そこと……できるわけがありません……」
言葉がかすれたのは、ただ驚いたからじゃない。
ずっと自分を縛っていた思いが、不意にこぼれ出そうになったから。
「……正直なところ、まだ“これ”と断言できることはありません。ただ、“黒髪、黒い瞳を持つ者が災いを払う”……そう古い記録にだけ、残されていまして」
セレナは、はっとして自分の髪と瞳に意識を向けた。
「だからこそ……貴方にお願いしたいと思いました。理由や理屈だけではありません。たとえ確証がなくとも――私は、貴方なら託してみたいと。……そう思ったんです」
その声には、揺らぎのない静かな信頼があった。
「……でも、……私なんて……」
セレナは思わず、膝の上で握った指にぎゅっと力を込めた。
「ずっと……自分のせいで不幸が起きるんじゃないかって、思ってきたんです。
私がいると、みんな困る。迷惑をかけるって……」
それは長い間、誰にも言えなかった心の奥の声だった。
でも今、レオンの目の前でなら、なぜか――少しだけ言葉にできた。
「……公爵家が呪われていると聞いて、私が怖いですか? 噂でも色々と言われているようですが」
「……いえ、全然。あの……噂は噂ですから」
(ずっと噂話や言い伝えのせいで不吉と蔑まれてきて……その辛さは、よくわかるから)
私の話を聞いていたレオンは、ふっと優しく微笑んだ。
「ふふ……そうですね。噂なんて、当てにならないものです。だから、貴方も心配しなくていいんです。不吉なことが起こるなんて、私は少しも思っていませんよ」
その瞳も、声も――どこにも棘はなかった。ただ、あたたかくて。
「私は噂や言い伝えじゃなく、目の前にいる貴方を見ています。そして……これからの私を、貴方に見守ってもらえたらと、そう思っています」
その言葉は、セレナの胸の奥に、そっと染み込んでいった。
ずっと誰かに言ってほしかったその言葉に、ぽつりと涙が頬を伝う。
レオンは少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐに胸元からハンカチを取り出し、そっと拭ってくれた。
「…………」
何も聞かずに私が落ち着くのを、ただただ待ってくれていた。
「……ありがとうございます。……あの、それで具体的には……何をしたらいいでしょうか?」
一人の人間として、大切に扱おうとしてくれるこの人のために――
この時には既に、少しでも力になれたなら、とそう思い始めていた。
「……それは、これから一緒に探していきましょう。無理に焦る必要はありません。今はただ、そばにいてくれるだけで、私は救われる気がしますから。」
その声には、揺らぎのない静かな信頼が滲んでいた。
どこかぎこちなく、でも真っ直ぐなその言葉は、セレナの胸の奥に少しずつ染み入っていった。
二人の間に、穏やかな沈黙が落ちた。
――と、そこへ。
「……んにゃ」
小さな声とともに、黒猫がセレナの膝にちょこんと飛び乗った。
「……この子、懐いてるんですね」
「ええ……不思議と、ずっとそばにいてくれて」
セレナは撫でながら、ふと視線を上げた。
「……あの、この子の名前、一緒に考えていただけませんか? “貴女がつけると良い”と、そう言ってくださったので……」
レオンは一瞬黙り込み、黒猫の毛並みを眺め、それからゆっくりとセレナを見つめる。
その静かな視線に胸が熱くなるのを感じた。
「……美しい」
「……えっ?」
その言葉を聞いた瞬間、胸がきゅっと縮まる。
そしてレオンはゆっくりと口を開いた。
「……“ベル”という名前は、どうでしょう。“美しい”という意味があるそうです」
「ベル……」
セレナはそっとその響きを口にし、少しだけ微笑んだ。
(……びっくりした……美しいって……そうよね、猫のこと……)
「……私のことかと思いました」
ぽつりとこぼれたその言葉に、レオンは小さく笑みを浮かべる。
「……そうかもしれませんね」
「えっ……」
何気ない会話の中に、セレナの心臓が飛び跳ねる。
頬が熱を持つのがわかる。
視線を合わせるのが恥ずかしくて、けれど嬉しくて。
小さな混乱とときめきが、胸の奥で花開いていくようだった。
そしてそのときめきを隠すように言葉を紡いだ。
「“ベル”、とてもいい名前ですね。気に入りました」
セレナは猫の首元を撫でながら、心の中でそっと思いを巡らせる。
(私にも、なにかできることがあるのなら――)
そんな気持ちが、胸の奥にそっと芽生えていた。
(……私が、呪いを解く“鍵”だなんて、信じられない。)
それでも力になれるのであればやってみたい、と少しだけーー前を向けた気がした。
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