高い天井から降りそそぐ光の中、浴室はしんと静まり返っていた。
湯気がふんわりと立ちのぼり、大理石の浴槽には淡い香りの湯が張られている。
花の香りがかすかに漂い、水音だけがやさしく空間を満たしていた。
「どうぞこちらへ。着替えのご用意もございます」
案内を務める侍女――リナは落ち着いた声でそう告げると、セレナの様子をそっとうかがった。
「……大丈夫です、自分でできますので」
セレナのその言葉に、リナは表情を変えずに一礼し、少し離れた場所で控える。
使用人に支度を任せるのが当然とされる中で、自らを整えるその姿勢に驚かずに静かに見守ってくれていた。
(気を遣ってくれてる……けど、だからこそ余計に落ち着かない……)
どこかそわそわとした気持ちを抱えながらも、セレナはぎこちなく身支度を整え、肩の力を抜くように湯へと身を沈めた。
お湯が肌を包み込むように広がり、心の奥までじんわりと温まっていく。
肩を撫でる湯の温もりに、自然と深いため息がこぼれた。
「……気持ちいい……」
「今日はカモミールの香りをお選びしました。お疲れを癒していただければと、公爵様のご指示です」
「公爵様が……?」
「ええ。お嬢様の到着を心待ちにされていたようで、準備にも何度も立ち会われていました」
言葉の途中で、リナはふっと微笑んだ。
「それはもう、念の入れようで……。貴重な“温水循環の魔法石”まで貸し出してくださったんです。普段は公爵様ご自身の私室で使われているものなんですよ」
驚いたように湯の中でセレナが目を見開く。
それがどれほど貴重で、特別なことか。
世間に疎い私にも、なんとなく伝わってきた。
(……わたしに、そんな……。公爵様はなぜここまでしてくださるの……?)
湯船に顔を近づけると、ふわりとした甘い香りが鼻先をくすぐる。
白く小さなカモミールの花びらが、湯の表面をゆらゆらと漂っていた。
――まるで、心の奥に少しずつ染みわたっていく、優しさのよう。
自分のために整えられたこの空間。
その事実がまだ信じられず、どこか夢を見ているような気分だった。
ふと、背後から声がかかる。
「お嬢様。お疲れでしょうから、マッサージさせて頂きますね」
リナは香油を手に取り、そっとセレナの背中に触れた。
柔らかな手のひらがゆっくりと滑っていくたび、なんだかくすぐったくて――
セレナは思わず肩をすくめ、小さく笑ってしまった。
「ふふ……すみません、なんだか……」
「いえ、こちらこそ。お背中、くすぐったかったですか?」
くすくすと笑うリナにつられて、セレナもくすっと笑った。
湯上がりに用意された柔らかなタオルで髪を包まれ、そっと水分を吸い取られていく。
その手つきは驚くほど丁寧で、触れられるたびに、身体からこわばりが抜けていく気がした。
「とても綺麗な髪ですね。夜の絹糸のように滑らかで……」
その言葉に、セレナは思わず目を伏せた。
「……黒髪なんて、不吉だって……ずっとそう言われてきたんです」
ぽつりとこぼれた声に、リナの手がふと止まる。
しばらくの沈黙のあと、リナは静かに言った。
「どこがですか? とても気品があって、私は美しいと思います」
セレナは小さく目を伏せ、ためらいがちに尋ねる。
「……怖く、ないんですか。私のこと……」
リナは微笑みながら、ゆっくりと首を振る。
「怖いなんて。お優しそうなお嬢様に、そんな風に思う人はいないと思います。どうか、少しずつで構いませんから――楽になってくださいね。わたしのことも、リナと気軽に呼んでください」
心の奥に絡まっていた何かが、ふっとほどけたような気がした。
やさしい言葉に背中を支えられるような気持ちで、セレナは小さく微笑んだ。
「ありがとう、リナ。……よろしくね」
「はい。お任せくださいませ」
そう言って、リナは準備していたドレスをそっと手に取る。
淡い青色の生地に、繊細な刺繍が浮かび、ふんわりと広がるスカートが光を受けて柔らかに揺れた。
「お似合いになりますよ。……これから、少しずつ楽しみましょう」
鏡の前で髪を整えられながら、セレナはちらりと自分の姿を見つめた。
胸がきゅっとするような、でもどこか誇らしいような……初めて感じる感情が、ゆっくりと込み上げてくる。
(……こんな気持ち、初めて……)
リナが髪飾りをそっと添えると、仕上げのようにふわりと笑った。
「お嬢様、前髪を分けるのもお似合いになるかと!……いえ、すでにとても素敵ですけどね!」
その楽しそうな声に、セレナは思わず小さく笑った。
ぎこちないながらも、確かに、心が少しずつあたたまっていく。
新しい場所、新しい人たち――
きっと、ここで少しずつ、自分も変わっていける気がした。
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