ある朝――
ミルフォード侯爵家は、異様なざわめきに包まれていた。
漆黒の馬車が屋敷の前に止まり、その側面には金色に輝く双頭の鷲――ドレイス公爵家の紋章が刻まれている。
「まさか、公爵閣下ご本人が……?」
使用人たちがざわめき、顔を見合わせる。
「どうして侯爵家に……?」「揉め事でしょうか」
不安と好奇心が入り混じった声が、静かな朝の空気を震わせた。
格上の公爵家の当主が、侯爵家を訪れることなど滅多にない。
やがて玄関の扉が重々しく開き、冷たい風とともにドレイス公爵が現れる。
その一歩ごとに、屋敷全体の空気が張り詰めていった。
――ミルフォード家・当主執務室。
ドレイス公爵家――それは、家門の利益を何よりも優先することで知られる古くから帝国にある貴族家。
裏取引や強引な手口の噂は絶えないが、どんな方法を使っているのか誰も掴めない。
証拠が一切残らない。
その狡猾さに、皇室でさえ頭を抱えているという。
そんな家の当主が、事前連絡もなしに執務室に現れたのだ。
侯爵は警戒を隠さず、静かに視線を上げる。
「そういえば――侯爵が後援しているあのサロン、評判がよいそうだな」
ドレイス公爵は、まるで何気ない世間話のように言いながら、紅茶を揺らした。
「さぞ、潤っているのでは?」
「……気に入って支援しているだけです。利益は微々たるものです」
侯爵は感情を抑え、淡々と答える。
「娘のルシフェリアも、あくまで趣味の延長でやっていることです。お金のためではありません」
「ほう……」
公爵の唇がわずかに持ち上がる。
しかしその笑みに、温もりは一片もなかった。
「では本題に入ろう」
声の調子が変わり、空気が一気に冷え込む。
「本題に入ろう。――今、外国への交易路開通計画を立てているんだが、計画の実行には貴殿の北境の通行権が不可欠だ。許可いただければ、利益の一部を分配し、税も優遇しよう」
先ほどまでの表情は消え、空気が威圧感で重くなる。
(交易通路……ドレイス公爵は狡猾だ。証拠はないが、家門の利益になるよう裏引きするつもりかもしれない……)
一時の沈黙が流れる。
ドレイス公爵は無表情のまま、出された紅茶を飲み干す。
(断れば、必ず何かしらの圧力をかけてくるだろう。……いくら我が家が侯爵家だとしても……公爵家ともなれば、でっちあげなど造作もないはずだ。だが、通行権を渡せば不正に加担するも同じこと)
――何度も貴族の汚いやり口を見て来た。
だが、こういう場面では必ず妻と娘の顔を思い出し、守らねばならない存在を今一度思い出す。
侯爵は深く息を吸い込むと、丁重に言葉を紡いだ。
「……協力はいたしかねます」
「いいでしょう。……そのお言葉、後悔なさらぬよう。」
ドレイス公爵はゆっくりと立ち上がる。
「見送りは結構」
足音が遠ざかるたびに、執務室の空気は冷え込んでいった。
パタンと扉が閉まった後、侯爵はそっと机の引き出しを開けた。
「……急いで不正の証拠を集めないとな。あとはこれを……」
侯爵は短く息を吐くと、引き出しの奥の二重底に、厚みのある封筒を滑り込ませる。
その動きには、迷いも逡巡もない。
——最近のルシフェリアは、驚くほど真面目に勉強をしている。
少し前から、天才的な片鱗は見せていたが……あれは本物かもしれない。
「……ルシフェリアなら、きっとわかる」
小さく呟いたその声は、机の中に封じられた。
◆
同じ頃――
ルシフェリアはエルディア公爵家の庭園に足を踏み入れていた。
(お茶会という名の社交戦……紅茶をぶっかけられる未来が見える気がする!)
背筋を伸ばし、気を引き締めてテーブルへ向かう。
だが、目の前の令嬢たちは柔らかい笑みを浮かべていた。
(あれ?思ったより穏やか……?)
アデライドが紹介の言葉を口にする。
「こちらが私の友人、ミルフォード侯爵令嬢ルシフェリア。そしてこちらはマリエット・ド・サンレイ伯爵令嬢、アンヌマリー・フェルネ子爵夫人ですわ」
丁寧に頭を下げ合い、互いに微笑みを交わす。
柔らかな陽光と花の香りが満ち、緊張感が少しずつ溶けていく。
だが――アデライドが唐突に言い放った。
「サンレイ令嬢もフェルネ夫人も……今日はずいぶん張り切っておいでですわね」
一瞬、笑顔が止まり、空気が凍る。
(あ、これまたアディやってる!)
慌てて私は笑顔を作った。
「もう、アディったら素直じゃないんだから。きっと素敵だと思ってるんでしょ?」
「ち、違っ……!」
「アディも仲良くしたいんです。今日のお茶会、楽しみにしてたんですよ」
アデライドは頬を染め、目を逸らす。
その様子に、二人の令嬢がくすっと笑った。
「まぁ……可愛らしい方ですこと」
「紹介してくださって感謝いたしますわ」
空気が一気に和らぎ、庭園には笑い声が戻った。
やがてマリエットが興味津々で尋ねてくる。
「陛下の生誕祭でも拝見しましたが、ルシフェリア嬢のそのドレス、本当にコルセットなしで着られるんですか?」
「本日はアデライド嬢もその型のドレスで……羨ましいと思っておりましたの」
アンヌマリーも興味津々の様子で頷く。
「にしても……コルセットなしで、どうしてこんなに胸の形が綺麗に出るんですか?」
マリエットの素直な疑問に、二人の視線が私に集中した。
「ドレス自体に当て布が付いているから、もちろん何も着けなくても形は整うんですけど……」
私は微笑んで、自分の胸元を軽く指で示す。
「私は別に、胸当てのような……固定できる下着を付けているんです」
「下着……?」
マリエットとアンヌマリーが同時に瞬きをする。
「馴染みがないかもしれませんけど、これがとっても楽で。それに――可愛いんですよ」
「え、それ本当ですの?」
食い気味に身を乗り出され、つられて私もテンションが上がっていつものように語り出してしまう。
「ドロワーズも可愛いですけど、あれってセクシーさはないでしょう?だから――下も可愛いものを、自分用に作ったんです。……婚約者が喜ぶように」
……しん。
一瞬、空気が止まった。
(あ、やば……お茶会で言うことじゃなかった!?)
と思った次の瞬間――
「そ、それ……販売してないんですか?」
「どこで手に入るのかしら!」
二人の瞳がきらきらと輝き、テーブルの空気は一気に盛り上がりへと転じた。
アンヌマリーが、艶っぽい笑みを浮かべる。
「……夫も喜ぶわ」
その言葉に、アデライドも頬を染めながらも興味津々で身を乗り出していた。
「えっと、ドレスサロンでは販売してなくて……一応、個人サロンでは販売できるんですけど……もしご興味あれば、皆さまだったら歓迎しますよ」
と、皆が興味を持ってくれたのが嬉しくて、軽い気持ちでさらりと告げた。
そうして、お茶会は思いのほか柔らかな空気のまま終わりを迎えた。
初めは「戦場」だと思っていたのに、気づけば笑い声が絶えず、名前で呼び合う仲になっていた。
(……楽しかったな)
庭園を後にする頃には、ルシフェリアの頬には満足げな笑みが浮かんでいた。
◆
数日後。
「お嬢様っ!」
セシルが怒涛の勢いで扉を開けた。
「予約の連絡がすごく来るんですっ!!」
「え?……お茶会で興味あればどうぞ~って軽く言ったんだけど、そんなことになってるの?……みんな意外とえっちね」
「そんなこと言ってる場合じゃないですよ、お嬢様!」
セシルが眉を吊り上げて、机にバンと手をつく。
「お茶会にいた方々だけじゃありません!その友人、そのまた友人まで……!」
私は少し目を丸くし、それから頬に手を当てた。
「じゃあ、ちょっとドレスサロンから助っ人を一時的に呼ぼうかな。勝手はわかるだろうから。セシルはマネージャーをお願いしてもいい?」
「……はぁ」
セシルが額に手を当てて、深くため息をつく。
「まあ、令嬢たちの興味が落ち着いたら元通りになると思うわ。知り合いしか来ないだろうし」
軽い気持ちで口にしたのだが――
私の予想に反して予約が途絶えることはなく、セシルの苦悩は絶えないのだった。
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