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5話 “もうひとりじゃない”――孤独だった彼女の、新しい始まり

××すぎるんです、公爵様・・・っ! レオン セレナ “もうひとりじゃない”――孤独だった彼女の、新しい始まり ××すぎるんです、公爵様・・・っ!
※本作品は過去作をもとに、一部表現を調整した全年齢版です。物語の世界観はそのままに、より読みやすく再構成しています。


絨毯が足音を柔らかく吸い込み、静かな空間に溶けていく。
初めて足を踏み入れた公爵邸は、伯爵家の屋敷とは全く違っていた。

壁も床も、窓辺の飾りさえも、どこか静謐で、手間を惜しまぬ手入れの跡があちこちに光っている。
その景色に目を奪われながら、セレナはそっと歩みを進めた。
レオンの隣で、小さな猫を胸に抱いたまま。

初めは強張っていた表情も、館の雰囲気や彼の落ち着いた足取りに影響されたのか、少しずつ和らいでいく。
緊張に包まれながらも、その瞳には新しい世界への興味が浮かんでいた。

(ようこそ、と言ってくれた。……初めて、そんな風に迎えられた)

セレナはそっとレオンを見上げる。
深い湖を思わせる碧の瞳が、優しい光を湛えて彼女を見守っていた。

「……セレナ・アルシェリアと申します。お世話になります。……猫と一緒にくることもお許し頂き、ありがとうございます」

先ほどは言いたくて、けれど言えなかった言葉。
少し震える声で、それでも真っすぐに彼を見て、セレナはそう告げた。

タイミングを見計らったように、彼女の腕の中で猫が小さく鳴いた。
その音に、レオンの視線がふわりと下りる。

「その猫は?」

「怪我をしていて……少し看病していたんです」

小さく答えながら、セレナは猫の頭を撫でる。
その仕草を、レオンは黙って見つめていた。
指先にこもる優しさが、彼女の人柄をよく表しているように感じられた。

「名前はなんというんですか?」

「……まだ、つけていません」

すぐに視線を伏せて小さく呟く。

「この子、ずっと私の話し相手で……でも、名前をつけると、どこかへ行ってしまいそうで……」

その気持ちをくんだのだろうか。
レオンは、ゆっくりとした声で答えた。

「……ここでは、もう貴女は“ひとり”ではありません」

はっとしたように、セレナが顔を上げる。
不意に差し出されたあたたかい言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。

「名前は、貴女が付けると良い。ここでは、その子も貴女の家族だから」

セレナは、猫の首元にそっと指を添えた。
ふにゃん、と柔らかい声が返ってくる。小さな命の重みが、少しだけ、心を軽くしてくれる。

(公爵様……もっと冷たい人だと思っていたのに。……不思議。こんなに安心できるなんて)

やがて、廊下の先の扉の前で、レオンが足を止めた。

「ここが貴女の部屋です。隣が私の部屋になっています。何かあれば遠慮なく知らせてください」

静かに開かれた扉の向こうは、陽の光がふんわりと差し込む、明るく穏やかな空間だった。
白と淡い紫を基調にした内装は華美すぎず、ひとつひとつに温もりが宿っている。

「……こんなに素敵な部屋……」

自然と足が進み、猫もぴょんと飛び降りてベッドの上に落ち着く。
セレナはふと問いかけた。

「お返事を出して、すぐにこちらへ伺ったのに……もう、こんなに整っていて……」

その問いに、レオンはわずかに微笑んだ。

「求婚状を出した時点で、すぐ準備を始めていました。気に入ってもらえたのなら、それで十分です」

(こんなふうに歓迎されるなんて思ってなかった……。どこへ行っても、黒髪と黒い瞳のせいで、避けられるばかりだったのに)

セレナは、迷うようにぽつりと呟いた。

「どうして……私を。黒髪の……不吉な子だと、言われていたのに……」

レオンは少し間をおき、穏やかに言った。

「……その話は、また今度にしましょう。長旅でお疲れでしょうから、まずはゆっくり休んでください。浴室の用意をさせてあります」

微笑んだ彼の顔には、ごくかすかな陰が差していた。
けれど、それもまた彼の優しさなのだと、セレナは感じ取った。

レオンが軽く手を掲げると、一人の侍女が姿を現した。

「本日からお仕えいたします、リナと申します。どうぞ、よろしくお願いいたします」

栗色の髪と琥珀色の瞳をもつその女性は、はきはきとした口調で、けれどやわらかな笑みをたたえていた。

「では、さっそく浴室へご案内いたしますね」

(……この人も、私を“人間”として見てくれている)

セレナは小さく頭を下げた。
その背に、レオンの視線が静かに注がれる。
何も言わず、彼女が扉の向こうへと消えるまで、じっと見送っていた。

まだ慣れない場所、出会って間もない人たち。
それでも、空気のやわらかさは、今までとまるで違っていた。

(ここなら――少しだけ、呼吸ができるかもしれない)

心の奥にあった重たい扉が、ほんの少しだけ、きい、と音を立てて開いた気がした。

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