皇帝陛下が壇上に立ち、場内に荘厳な静けさが流れた。
スピーチが終わると、空気は次第に和やかさを帯びていった。
(……この雰囲気、ちょっと緊張するかも)
私はこっそり隣に視線を送る。
ティオ様はまっすぐ前を向いていたが、その目線がふと、壇上の後方に向けられた。
「……あ、兄さん」
小さくつぶやかれたその言葉に、私は思わず声をあげてしまった。
「えっ!?兄さん!?……って、でかっ」
「しっ……!」
慌ててティオ様に口を押さえられた。
黒い軍服を纏った大柄な男性が、皇帝陛下の背後に控えている。
周囲の誰よりも高く、広く、分厚く……もはや“壁”のような存在感だった。
「あれが、本当にお兄様なんですか!?リュシアン様もティオ様も“線が細い美形”って感じなのに……なんかこう、骨格から違いますよね!?」
ティオ様は小さく吹き出しながら言った。
「騎士にぴったりな体格でしょ。我が家は代々皇室の護衛をしてる家門だからね。僕とリュシアン兄さんは出来ないことだから、立派だと思ってるよ」
「へぇぇ……」
(あ、お母様が“名門”って言ってたの、そういうことだったんだ)
誇らしそうに兄を見つめるティオを見て、家族仲が良いことが見て取れた。
「それに、兄さんみたいに大きくなりたくてずっと鍛えてるんだけど……全然ああはならなかったね」
「……いいんですよ!ティオ様は今の脱ぐと実はすごい、みたいなのが最高なんですから!」
ぎゅっと腕を掴むと、くすぐったそうに笑う姿に頬が緩む。
二人で話をしながら周りを見渡すと、ふと、会場の少し奥――お父様の姿が目に入った。
煌びやかな貴族たちに囲まれて、父が笑みを浮かべている。
けれどその笑みは、私たち家族に見せるような甘さではなく、どこかきりっと引き締まったものだった。
(……お父様が外部の人と話してるの初めて見た)
親バカで、すぐに私を甘やかして、何をしても「かわいい」って言ってくれるけど――
でも、ちゃんと“侯爵として”の顔を持ってて、この国の中でも“敬意を払われる立場”にいるんだって、改めて思った。
「……お父様、かっこいいね」
「……はい」
彼からこそっとそう言われて、でも照れくさくて、小さな声でそう答えた。
そんな中、ルシフェリアはグラスを持ち直し、ふと目を丸くする。
「それはそうと、皇帝陛下って、背が高くてすごくイケメンですね。あ、そういえば……レオン様のいとこなんですよね?レオン様は今日は来てないんですか?……いったいいつ会えるんですか」
「しっ……!不敬になるから静かにして……っ」
ティオはそっと声を落としながら、辺りを気にして視線を巡らせたあと、話を切り替えるように私の手を取った。
「……ダンスでもしようか。ちょうど、曲がかかるみたいだし」
「えっ……ダンス……!?あっ、ま、待って、心の準備が……っ」
戸惑うルシの言葉も終わらぬうちに、ティオはそのまま彼女を優しく引き寄せ、ホールの中央へと歩き出した。
煌びやかなシャンデリアの下、優雅な旋律が会場を包み込む。
貴族たちの視線が集まっているのを肌で感じながらも、ティオに手を添えられた瞬間、不思議と胸がすっと落ち着いた。
最初の一歩、そしてもう一歩。
少し緊張した面持ちでステップを踏みながらも、ふいに思いついたように囁いた。
「こうやって……みんなの前で踊ったら、ティオ様は私のってアピールも完了です」
彼女の目がきらきらと輝いているのを見て、ティオは優しく微笑んだ。
「そうだね。……僕はルシだけのものだよ。……ルシ、今日もすごく綺麗」
「~~~っ!」
ルシフェリアは目を見開いたまま、ぶんぶんと首を振って顔を真っ赤にし、視線を逸らす。
なのにティオは、何事もなかったかのように穏やかに微笑みながら、彼女の腰にそっと手を添えた。
鼓動が早鐘のように鳴る。
ルシは心の中で(好き!!!)と絶叫しながらも、ステップを続けるしかなかった。
もっとぎこちないダンスになると思っていたが、ティオは軽やかに、けれど優しく私をリードしてくれる。
「……意外と、上手なんですね。ティオ様」
ふいに漏れたルシの言葉に、ティオは口元だけでくすっと笑った。
「下手だと思ってた?……まあ、僕はこの国でずっと生きてるからね。貴族のたしなみ程度には、ある程度は踊れるよ」
そのまま、ティオは手を少しだけ握り直し、いたずらっぽく言葉を続ける。
「……ルシも上手だよ」
にやり、と笑うティオ。
ルシフェリアは驚いて彼の顔を見上げた。
「こんなに足踏んでるのに!?ティオ様の足、潰れてません!?すみません!!」
「ちょ、声が大きいって……!ほら、そんなに慌てなくて大丈夫。僕の足は丈夫だから」
ふたりは小さく笑い合いながら、音楽に合わせてゆっくりとステップを刻んでいく。
それはまるで、周囲のざわめきが遠のくような、不思議な浮遊感。
(……ダンスなんて初めてだし、ちょっと恥ずかしかったけど、ティオ様とだったら楽しい)
軽やかにワルツのステップを踏みながら、ルシフェリアはすっと顔を寄せ――そっと、ティオの耳元で囁いた。
「……帰ってからも、お楽しみがありますから、体力残しておいてくださいね?」
くすぐったいほど甘やかな声に、ティオの動きが一瞬、止まりかける。
「~~~~っ……!」
耳まで赤く染まったティオは、目を逸らして口元をきゅっと引き結んだ。
さっきまで笑みを浮かべていた彼の表情が、見る見るうちに熱を帯びていく。
「ルシ……急にそういうこと言うのやめて……」
声を震わせるティオに、満面の笑みでくるりと一回転してみせた。
「ふふっ、さっきのお返しです」
甘い攻守交替のなか、舞曲はゆるやかに終わりへと向かっていく――
彼の瞳に映るのは、楽しげに笑うルシフェリアの姿だけだった。
(……ふぅ。なんとか、終わった)
煌びやかな舞踏会、貴族たちの視線、はじめての社交界――
正直、もっとこう、“何か”が起きるかと覚悟していた。
(飲み物をばしゃってかけられる展開とか。毒を盛られるとか……)
――だけど。
実際のところは、ちょっとしたひそひそ話と、赤面させたりさせられたりの甘いやり取りで終わってしまった。
思ってたよりも平和で、ちょっと拍子抜けをした。
こうして生誕祭は、大きな騒ぎもなく、滞りなく幕を閉じた。
◆
そして今、私は――ティオ様と一緒に、帰路についている。
夜の冷気をほんの少しだけ含んだ空気が、頬にやさしく触れる。
人の喧騒から離れた馬車のなか――やっと、ふたりきりの時間が戻ってきた。
「……お疲れ様、ルシ」
隣に座るティオが、そっと私の肩に外套をかけてくれる。
そのぬくもりと匂いに、心までとろけてしまいそうになる。
「……はい。すっごく疲れました」
頭をコテンと彼の肩に預ける。
心地よい揺れと、ティオのぬくもり。
このまま眠ってしまってもいい――そんな安心感に包まれる。
「でもティオ様と一緒だったから、楽しかったです」
ティオ様の手が、そっと私の手を包む。
馬車のなかの静けさが、ふたりの距離をもっと近づけてくれる。
「……僕も。ずっと隣にいてくれて嬉しかったよ」
その声があまりにやさしくて、胸の奥がきゅうっと鳴る。
(――でも、早く帰って……ティオ様と、いちゃいちゃしたい)
――帰ったらすぐにでも、この人を私の手でほどいてしまおう、と。心の中でひっそりと決意した。
◆
屋敷の扉が閉まった瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
もう誰の視線もない。
抑えていた想いが、一気にあふれ出す――。
そのままティオの胸元に手を伸ばし、白シャツの第一ボタンを、かちり、と外した。
「ル、ルシ……?」
唐突な動きにティオが戸惑う間もなく、私はにこりと微笑んだ。
「だって……暑いでしょ? 会場、人が多くて、きっといっぱい汗かきましたよね」
「そ、それは確かに……でも、先にお風呂に――」
「ううん、いい匂いですよ」
そう言って、開いた胸元に顔を寄せた。
「ちょっと、……ルシっ」
首筋から鎖骨へ――柔らかな唇が触れていく。
ちゅっ、ちゅっ、と可愛らしい音を立てて、けれどそれは確実にティオの理性を削り取っていく。
「……ティオ様」
そっと唇を重ねる。
静かに、甘く、余韻を分け合うように。
短く、何度も重ねるようにキスをしてから、ティオが微笑んだ。
◆
程よい疲労感に包まれながら、着替えを済ませ、二人で寝室のベッドにごろんと横たわった。
「…………」
ちらりと横に視線を向けると、ティオは視線を逸らして一度背を向けるように寝返りを打った。
「……ふふ、私が好き勝手触ったから怒ってるんですか?」
「……違う」
そうぼそりと呟くと、もじもじと寝返りを打って私の方へと体を寄せてくる。
そしてそっと腕に触れてきて、まるで子供のように私の胸に額を押し付ける。
「…………」
そのままちらっと私を見上げるように、緑色の瞳が動く。
「……ティオ様?そんなに甘えて、どうしたんですか?」
彼の柔らかな髪の毛に手を伸ばし、優しく撫でると、ティオは恥ずかしそうに口を開いた。
「……だって。陛下のこと、“背が高い”とか“イケメン”とか……何回も言ってた……ちょっとだけ、嫉妬してる。僕だって小さいわけじゃないのに」
「……――っ!!」
ルシは弾かれたように上体を起こし、顔を真っ赤にしながらティオを見下ろした。
「……ティ、ティオ様……可愛すぎませんか……!?」
ガバッと抱きついて、ティオの首元に顔を埋めながらもだえる。
「ちょ、ルシ!?顔近――っく、くすぐったいっ」
「……なんでそんな可愛いの!?破壊力高すぎる……!!」
ルシフェリアに押し潰されそうになりながら、ティオは小さく笑った。
「……じゃあ、もう他の人に“背高くてイケメン”とか言わないで。……僕は”ルシの”なんでしょ?」
「っ……はい!……もう、やきもち妬いたら甘えてくるのなんなんですか?得しかない……」
二人の身体が自然と寄り合い、ぎゅっと抱きしめ合った。
「ルシ、このままぎゅってして……眠りたい」
「……はい」
心地よい心音に、まぶたがゆっくりと重くなっていく。
(あぁ、毎日かっこいいティオ様と可愛いティオ様見れて幸せ……)
――こうして、生誕祭の長い夜は静かに幕を閉じていった。
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