ある日、私はお母様と向かい合っていた。
執務室より少し広い応接間。
窓からこぼれる陽の光がレースのカーテンを透かし、磨かれた床と家具を柔らかく照らしている。
けれど空気はなぜかぴんと張りつめていて、息を飲むほど静かだった。
お母様は微笑んでいるけれど、その目だけは真剣そのもの。
眉一つ動かさずに、視線の圧でこちらを黙らせてくる。
――そう、お父様が話を通してくれたおかげで、お母様が時間を作ってくださったのだ。
「よろしくお願いしますね、お母様、おほほ」
乾いた笑いを浮かべつつ、背筋を正す。
(少しやったくらいで完璧になるとは思ってない。でも、せめてミルフォード家の名に恥じないくらいには……!)
祈るような気持ちで、最低限の礼儀作法を教わることにした。
最初の課題は――ティーカップの持ち方。
微笑みながらそっと口元へ運ぶと、お母様が即座にため息をつく。
「……ルシ、あなた、本当にこんな基本的なことも忘れたの?」
じとっとした視線を受けながら、私はなんとか笑顔を作った。
「き、緊張で指先がつい……久しぶりですので~!」
誤魔化すスキルだけは転生前から健在である。
「……一日では無理でしょうから、ゆっくりやっていきましょうね」
指の角度、カップの傾け方、視線の置き方――ひとつひとつ丁寧に直されていく。
(うぅ……お茶を飲むのに、こんなに神経使う日が来るなんて……)
一つ覚えては次を直され、頭の容量がどんどん埋まっていく。
ティーカップ、ナプキン、椅子の座り方……。
気づけば、午前のお茶はすっかり冷めていた。
◆
ようやく形になってきた頃、お母様がふっと微笑む。
「じゃあだいぶ形にはなって来たから……次は、ダンスに参りましょうか」
(……来た。最大の難関……!)
『生誕祭ほどの式典なら、ダンスは“必須”よ』
その一言を思い出しただけで胃がきゅうっと痛む。
当然、ダンス練習も始まった。
だが数分もせずに、お母様の口からため息がもれる。
「ルシフェリア。あなた、相変わらず壊滅的にダンスが下手だわ……」
(……なるほど、ルシフェリア本人も苦手だったのね)
どこか親近感が湧いて、思わず笑みがこぼれる。
「……ルシフェリア。笑ってる場合じゃないわ。ティオの足、踏んだらどうするの」
「……お母様。ティオ様は鍛えてはいますけど、きっと運動はできないタイプなので、私と同じようなもんだと思います!……大勢で踊るんですよね? 多分、そんなに目立たないから大丈夫ですよ」
その瞬間、お母様は無言で扇子を取り出し、額をそっと押さえた。
それは――“呆れました”の合図。
それでも、ふとお母様の表情がやわらぐ。
「でもね、ルシ」
声のトーンが、少しだけ柔らかくなっていた。
「我が家は数少ない侯爵家。アルバレスト家も、皇室に代々仕える名門。よほどのことがなければ、誰もあなたを責めたりしないわ」
「……?」
「つまり、姿勢を正して笑顔でいればなんとかなるの。私たちも近くにいるから、何かあれば目で合図してちょうだい」
お母様がくすっと笑う。
上品で、でもどこか茶目っ気のあるその笑い声に、緊張が少しだけほぐれた。
「せめて、ティオ様とミルフォード家に泥を塗らないようだけ気をつけます……!」
「ルシ……あなたが“教えて”って言うから、あれこれ伝えたけれど……そんなこと気にしなくていいの。あなたが楽しいかどうかが一番大事なんだから」
その言葉に胸がじんと温かくなる。
お父様もお母様も、私の心を一番に見てくれている。
「……うん。ありがとう、お母様。大好きっ!」
思わず抱きつくと、お母様は一瞬だけ固まって――そして、ふっと笑って背をぽんぽんと叩いてくれた。
「……もう、いつまでも子供なのね」
「ふふ……はい、まだまだ子供です……っ」
髪を撫でられる感触に、胸がじんわり温かくなる。
「でも、そういうのは家の中だけにしてちょうだいね。」
「はーい!」
返事をしながら、私は心の中で静かに誓う。
(お母様のためにも、ティオ様のためにも。……ちゃんと、頑張ろう)
◆
「……ふぅ。やっぱりセシルのお茶がいちばんね」
陽光の差す窓辺で、私は優雅にティーカップを傾けた。
隣には侍女のセシル。
いつも通り背筋を伸ばし、完璧な所作で菓子皿を整えている。
「セシル、当日は早めに支度するわよ。完璧に仕上げないといけないから」
「かしこまりました、お嬢様」
「……そして当然、あなたも来てくれるわよね?」
にやりと笑うと、セシルの手がぴたりと止まった。
「……わたくしも、ですか」
「セシルがいないと私は終わりよ?」
「……そんな自信満々に言わないでください……っ!」
嘆きながらも、セシルは小さく頭を下げる。
「……お供いたします、お嬢様」
「ねぇセシル、ちょっとこっち来て」
私は小箱を取り出し、彼女にそっと差し出した。
「……お嬢様?」
「開けてみて。セシルに似合いそうなもの見つけたの」
セシルが蓋を開けると、中には小さなアメジストのブローチと揃いのピアス。
淡い紫の宝石が、光を受けて静かに輝いている。
繊細な銀細工が蔓草のように宝石を包み、控えめなのに存在感がある。
それはまるで、セシルそのもののようだった。
「派手なのは仕事中はダメだって分かってるから、ちゃんとシンプルで可愛いやつ選んでみたの」
「……これは……」
「セシルのラベンダー色の髪と目に、すごく似合うと思ったの。よかったら式典に着けてきて欲しいなって」
セシルは一瞬言葉を失い、まばたきを繰り返す。
「……ありがとうございます。お嬢様……っ」
「ふふ、そんな大げさに受け取らなくてもいいのに。……あっ、ちなみにちゃんと私のお小遣いで買ったから安心してね?」
「……な、何をご安心すればよいのか、ちょっとわかりかねます……」
「えっ、だってミルフォード家は”堅実派”ってお父様言ってたのに、悪いところから勝手に出したとか思われたら困るでしょ?」
思わず笑うと、セシルも肩の力を抜いて微笑む。
そっとブローチを手に取り、光に透かして見つめた。
「……では、お言葉に甘えて、つけさせていただきます」
「うん!とっても似合うわよ、セシル」
私は得意げに笑って、扇子をくるりと回す。
「それと――私って、ちょっと記憶が曖昧なところがあるじゃない?」
「…………」
セシルの無言の視線が痛い。
「だから、何かあったら頼むわよ。頼れるの、あなただけなんだから」
「……承知いたしました。全力でお守りいたします」
――こうして、私の“社交界再デビュー”の日は、少しずつ近づいていくのだった。
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