午前の光がやわらかく差し込み、ティオの別邸の庭先に並ぶ花々が、朝露をまとって淡くきらめいていた。
朝ゆっくり過ごして彼を見送ったあと、私はミルフォード邸へ続く石畳の小道をゆっくり歩き出す。
(……まだ決めたわけじゃないけれど、後継者教育……少しくらい挑戦してみてもいいかも)
胸の奥に小さな芽が灯り、くすぐったい感覚が広がる。
門をくぐると、白い外壁が陽光を受けてほのかに輝き、屋敷全体がいつもより明るく見えた。
向かう先は、お父様の執務室。
(まずは話だけでも聞いてみよう)
軽く息を整え、扉の前で小さく拳を握る。
――コンコン。
返ってきたのは、いつもの『どうぞ』という穏やかな声だった。
「お父様~、少しよろしいですか?」
「どうした、ルシ。お小遣いか?」
「違いますよっ!」
私は机の前まで進み、椅子を引いて腰を下ろした。
「いや……あの、まだ“やる”と決めたわけではないんですけど、後継者教育って、実際どんなことをするんですか?」
その一言で、お父様の目がぱっと輝いた。
「ルシ……!!やる気に満ち溢れてるんだな」
「えっ、ちがっ、ちがいます!! 気になっただけで!好奇心で!!」
満面の笑みを浮かべるお父様に慌てて否定するも、話は勢いのまま続いていく。
「よし!まず後継者教育として必要な要素として、政務教育に始まり、民政・社会制度、歴史や外交知識……さらに、財務管理、貴族法、社交戦略……」
「……ちょ、ちょっと待ってください。そんなにあるんですか?」
「まだあるぞ。そして、思想・家訓・信念の継承。これが一番大事だと考えている」
「え、えぇ……」
圧倒的な情報量に、私は背もたれに沈み込んだ。
「……あ、あの」
「なんだ?」
「無理!」と言いかけた言葉を飲み込み、お父様の鋭い眼差しに気圧されながら笑顔を作る。
「私、単純作業が得意なので――まず、読んで把握するような資料があれば、全部ください」
控えめに申し出ると、お父様が一瞬ぽかんとした顔をした。
「………………全部……?」
空気が一瞬、静止する。
「……本気か?」
「はい。とりあえず覚えるだけなら出来ると思うので、手を動かす前に内容をきちんと知っておきたいです」
お父様は深く頷き、満足げな笑みを浮かべた。
「まずは貴族家の家名と紋章を覚えるといい。例えばこの封蝋……紋章を見れば、すぐにどの家の者かがわかるようになっている」
差し出された手紙には、深紅の蝋が丸く固められ、その中心に繊細な彫り込みが刻まれていた。光を受けて陰影が変わり、小さな宝飾品のように見える。
(わ、かわいい……! シーリングスタンプだ。色違いとか集めたい……!)
夢中で覗き込む私に、お父様が少し首を傾げた。
「そんなに珍しいものでもないが……」
そう言いつつ、再び説明を続ける。
「……あと貴族家にも“堅実派”と“実利派”と呼ばれる派閥のようなものがある。どの家がどちら側に属しているかも把握しておくといい」
「なんですか、それ?」
「貴族家の中には、“領民あってこそ、領地は成り立つ”と信じる者たち――堅実派と、そして、“領地は搾取するためにある”としか考えていない者たち――実利派の家門に分かれている」
お父様の眉間にわずかなしわが寄る。
「“堅実派”などと呼ばれてはいるが、実際には派閥を作っているわけではない。当たり前の事として、やっているだけだ。……領民を思うのは、貴族として当然のことだからな」
静かな声の奥に、真っ直ぐな信念が滲んでいた。
「……だが、“実利派”は裏で徒党を組み、不正を働く。先代陛下の代でも取り潰そうとしたが、名分がなく処罰できなかった。だからこそ、我々は信頼を失わないように積み重ねるしかないのだ」
お父様は私の手を取り、優しく包み込む。
「領民を守ること――それこそが、ミルフォード家に課せられた使命なんだよ」
その真剣な眼差しに、私は小さく頷いた。
(要するに、堅実派がまともで、実利派がやばいってことね。あと……お父様が本当に領地を大切にしてるの、伝わった)
お父様は手を離し、机に広げた名簿を指さした。
「堅実派の中でも、ノクティス公爵家やエルディア公爵家が主要な家門だ。ティオのアルバレスト伯爵家、そして我がミルフォード侯爵家ももちろんそうだ。……実利派で厄介なのが、ドレイス公爵家。この辺りから覚えるといい」
「ノクティス公爵家!?」
思わず声が漏れる。
何度も原作で見た主人公夫婦の家名だった。
(……そっか。同じ帝国の貴族だもん、話に出るのは当たり前か)
「ん?興味ないと思っていたが、さすがに知っていたか。それともティオから聞いて知ったのか? ティオはノクティス公爵の呪いを解いたからな。あれで帝国中に名が広まった」
「帝国中に……!?」
「そうだ。失われていた魔法技術を蘇らせたと、大騒ぎだったぞ」
(そんなことになってたの!? 原作にもあったけど、まさかそんな大事だったなんて!)
呆然とする私をよそに、お父様は満足げに頷く。
「そんな時の人が我が家の婿になるんだ。誇らしいことだ」
(いや、あのとき私、屋敷に引きこもって原作を崩さないように必死だったから知らなかった)
思考がぐるぐる回る中、お父様が話題を切り替える。
「そういえばルシフェリア、生誕祭に出席することにしたそうだな」
「え……まぁ、色々あって……」
(ティオ様の“俺の婚約者です”アピールのせいなんだけど)
「久々の社交界だし、礼儀作法も復習しておこう。デビュタントの時にお世話になったグラディス夫人に声をかけようか?」
「えっ」
思わず変な声が出て、少し後ずさる。
(名前からして怖い!“肘の角度が1度違いますわ”とか言いそう!)
私は慌てて提案した。
「あの……お母様に教えてもらうのはどうですか?」
「お母様がいいのか?」
茶化すような笑み。
「そっちの方が覚えやすいですし……」
「ふむ、そうか。話を通しておこう。また時間を取ってもらいなさい」
そう言って、お父様は分厚い名簿を差し出した。
「やはり……ルシがやる気になったのは、ティオのおかげ、か?」
「っ……!」
唐突な指摘に顔が熱くなる。
「……まぁ……その……ティオ様と並んで恥ずかしくないように、頑張ろうとは思ってます……」
机をバンッと叩く音。
「……もう、早く結婚しなさい!!!」
「はっ!?」
「よし、すぐに式を――」
「待って待って待って!! まだ名簿受け取っただけですから!!」
二人で言い合っているうちに、お父様の表情がふっと緩んだ。
「でも、無理はするな。これまで通り、気が乗らなければ遠慮していい。ルシフェリアが“したい”と思うことを、すればいい」
優しく響く声に、胸がじんわり温かくなる。
「……ありがとうございます。お父様」
名簿を胸に抱きしめ、私は部屋をあとにした。
◆
執務室を出て自室に戻ると、ベッドにそのまま倒れ込んだ。
分厚い名簿を枕元に置き、顔をうずめる。
(……結婚、かぁ。そういえば“ティオ様と色んなことしたくて婚約したい”とか言ってたけど、その後のこと考えてなかったな)
にやけが止まらず、枕が温かくなる。
(ティオ様と結婚したいな。絶対幸せだろうな……)
くすりと笑い、名簿に視線を移す。
(最近ティオ様と会う以外予定もないし、少しくらい勉強するのもいいかも)
ぱらぱらとページをめくると、家門や紋章、財源の記述まで細かく並んでいる。
手書きで追記された文字を見つけ、胸がじんとした。
(お父様も、きっと努力されたんだ……)
インクと紙の香りが心地よくて、落ち着く。
(ティオ様が頑張ってるなら、私も少しは――ね)
ページをめくる手が軽くなる。
ほんの少しだけど、確かに前に進んでいる気がした。
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