~セレナ公爵邸到着時 レオン視点~
馬車の到着を聞き、邸の正門へと足を運ぶ。
けれどすぐに見えてきたその馬車に、思わず足を止めた。
――あれは、公爵家が用意したものではない。
(……まさか、あれで伯爵家の令嬢を?)
胸の奥に、鈍い熱が灯る。
苛立ちを押し殺しながらも、その違和感は拭えなかった。
やがて馬車の扉が開き、細い足が一歩、石畳に降りる。
そして現れたのは――
闇夜を思わせる艶やかな黒髪。
風にふわりと舞うその髪は、まるで絹糸のようにやわらかく光を返す。
透けるように白い肌が陽光に浮かび、ふと目を引いた。
そして彼女が顔を上げたとき、深く澄んだ瞳と目が合った。
(……黒髪に黒い瞳。噂の通り、だな)
けれどその瞳は、ただの闇ではない。
静かな湖面のように、言葉にならない何かを湛えているようだった。
祈りにも似た――不思議な光。
少女の身なりは質素だった。荷物も少なく、供を連れていない。
腕の中に、小さな猫を抱いているだけ。
(……まさか、これほどまでに――)
いったいどんな扱いを受けてきたのか。
その境遇が、服装よりも、その立ち姿の静けさが何より物語っていた。
気づかれぬよう視線を逸らし、背後に控えるアレクへ声を落とす。
「……伯爵家には伝えておけ。馬車の件、正式に対処すると。――静かにな」
アレクが一礼するのを確認し、少女の前へ歩み出た。
「ようこそ。……私は、レオン・ノクティスです」
戸惑いを含んだ彼女のまなざしが、自分を見上げる。
その中にあったのは――怯え。そして、わずかな諦め。
(……似ている)
孤独を抱えて生きてきた者だけが持つ、静かな影。
それは、かつて鏡の中で自分が見たものと、あまりにもよく似ていた。
彼女は“聖女”として必要な存在だ。
その力が、我が家の未来を救うかもしれない――それは間違いない。
だが、それだけではなかった。
彼女の姿を見たとき、ただ“手を差し伸べたい”と感じた。
誰でもなく、この少女自身に――
聖女としてではなく、壊れてしまう前のひとりの人として。
その小さな背に、何かを背負わせすぎてしまう前に。
この彼女に、自分ができる形で、寄り添いたいと思った。
――ただ、それだけだった。
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