夜のミルフォード邸。
静まり返った食卓の上には、明日の婚約式を前にした空気がゆっくりと流れていた。
ルシフェリアは、両親と向かい合って座っている。
「……明日で、いよいよなのね。ルシフェリア」
お母様が微笑むその瞳は、かすかに光を帯びていた。
隣のお父様も、ゆっくり頷きながら口を開く。
「……性格が変わったとか、前より激しくなったとか、そんなことはどうでもいい。ルシの優しさは昔から変わらない。どんな姿でも、それが一番大切なんだ」
胸の奥に、じわりと温かさが広がる。
私の手をお母様がそっと包み込んだ。
「あなたがどこに行こうと、どんな未来を選んでも――笑っていてくれればそれでいいの」
深く響く声は、見透かすように優しくて、心の奥に染み渡る。
胸の奥に、かすかな震えのような衝動が広がった。
(……二人がどれほどルシフェリアを想ってくれているか、痛いほどわかる)
その愛情は“ルシフェリア”だけじゃなく、“私”にも届いている気がした。
◆
夜が更け、ルシフェリアはひとり自室でゆっくりしていた。
ベッドの下から、小さな箱を取り出した。
(……ちゃんと気持ちを伝えなきゃ)
深く息を吸い、ペンをとる。
ーーー
あなたの両親はね、何をしていても「笑っていればいい」って言ってたよ。
美月、そちらでも笑って過ごしてね。
私も、それを聞いて笑って生きようって決めたよ。
私があなたの両親を、大切にします。
ーーー
「……読んでくれるかな」
書き終えた手紙を箱に戻し、そっと蓋を閉じる。
明日のわくわくを胸に静かに目を閉じた。
◆
カーテンの隙間から朝の光が差し込むころ、ルシフェリアはゆっくり目を開いた。
この間まで胸の奥にあった漠然とした不安――“私”として愛されているのか、という焦りは、もうどこにもない。
(きっとどんな私でも、ティオ様は愛してくれる。両親もセシルも、”私”と”美月”の両方を大事に想ってくれている)
そんな確信めいた思いに包まれて、ついに――婚約式の日がやってきた。
(……いよいよ、今日だ)
胸が高鳴る朝。
支度を始める前に、昨日手紙を入れた“箱”のことを思い出す。
そっと箱を開けると、見慣れない白い紙が一枚添えられていた。
(……わ、返事きてる……!)
開いてみれば、そこには自由奔放な文字が踊っている。
ーーー
ねえ、ルシフェリア。
私、彼氏とついに……♡
あなた、もしかしてまだティオ様と進んでなかったりして?w
(そういえばさ、スマホの“聖典”だけど、入れ替わった時に最初に見たよ。ティオ様妄想されすぎてて笑った)
美月
ーーー
「……美月~~~~~~~~~!!!!!!!」
怒りとも照れともつかない声をあげ、顔を真っ赤にするルシフェリア。
「今日よ、今日! 今日やっと進むんだから!!」
指先に力を込めてメモを丸めかけ――
ふと、もう一枚あることに気づいた。
慎重に広げると、昨日の言葉に応えるような美月からのメッセージが綴られていた。
ーーー
お父様とお母様からのメッセージ、ありがとう。
そちらはよろしくお願いします。
私も、あなたの両親を大切にします。
ーーー
静かに目を伏せ、喉の奥がじんと熱くなる。
「……ありがとう、美月」
そっと呟き、手紙を別の箱にしまうと、ゆっくり立ち上がった。
これから始まる特別な一日。
大切な人のもとへ向かう準備を始めるために――。
◆
侯爵家の親族、伯爵家の関係者たちが集まり、想像以上に豪華で華やかな式典が幕を開けた。
祝詞が響き、誓いの言葉が交わされ、ティオ様が私の指にそっと指輪をはめてくれた時も――
私の胸の奥は、”その後”のことでいっぱいだった。
ーーそして、あんなに待ち遠しかった式は驚くほどあっけなく終わった。
薬指の指輪だけが、今も静かに光を放っている。
控え室に戻った私は、ようやく重いドレスを脱ぎ捨てる。
今日のために特別に仕立ててもらった、簡単に着替えられるドレスに袖を通し、鏡の前でそっと整えた。
鏡に映る自分は、幸福感に満ちていた。
(……だって、今夜はついに……)
◆
全てが終わり、ティオ様と二人だけの馬車に乗り込む。
心臓の鼓動と馬車の揺れが重なり、胸がそわそわと落ち着かない。
隣に座り、つないだ手を見下ろしてぽつりと呟く。
「……ティオ様の正装、すごく素敵でした」
ティオ様は少し照れたように笑い、まっすぐに私を見つめる。
「ありがとう。……ルシも、すごく綺麗だよ」
握られた手のひらから熱が伝わってくる。
今夜、私は――この人の“婚約者”として、初めての夜を迎える。
やがて馬車が止まり、ティオがドアを開けてくれる。
差し出された手を取ろうとした瞬間。
「わ……っ」
ふわりと、身体ごと抱き上げられていた。
「……行こう、ルシ。早く二人きりになりたい……」
くすぐったい声に頬が熱くなるのを感じながら、そのまま腕の中で運ばれていく。
別宅の扉が静かに閉まる。
ーーガチャリ
その音と同時に、ティオ様がゆっくり顔を寄せてきた。
「……ルシフェリア」
名前を呼ばれた瞬間、唇が重なる。
柔らかく、深く、何度も、何度も。
まるでいままでのすべてをほどくように。
顔を離すと、ティオは私を抱き上げたまま、静かに歩き出す。
寝室へ迷いなく足を進め、ベッドに優しく下ろす。
ふと彼が私を見下ろした。
「……さっそく、なんですね?」
小さく問いかける声に、ティオ様は一瞬だけ動きを止め――
それから少し目を伏せ、低く呟いた。
「……だめ?」
その声音に、どれほど長く我慢していたかがにじんでいて、胸の奥がぎゅっと熱くなった。
「だめじゃないです」
私はそっと微笑み、彼の首に腕を回した。
もう、全部を預けると決めたから。
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