あの夜――彼の腕に包まれて「好き」と想いを交わしてから、どれほどの時が経ったのだろう。
まるで夢のように、ふたりの夜は変わることなく静かに過ぎていく。
今夜も、いつも通りの時刻にレオンが訪れた。
椅子に腰を下ろし、セレナの手をそっと取り、やさしく微笑む。
「おやすみ、セレナ」
その声は変わらずあたたかく、やさしくて、安心させてくれる。
――けれど、あの夜の熱を思えば、どこか物足りなく思えてしまう。
去っていく彼の背を見送りながら、
(……あの夜のこと、忘れてしまったの?)
セレナは小さく息を吐き、ふわふわとした毛並みに指を這わせた。
膝に乗ったベルが、静かに見上げてくる。
「ねえ、ベル……」
小さく囁くと、ベルは首をかしげた。
「……私って、わがままなのかな。毎晩来てくれて、手を握ってくれて……それだけで幸せなのに」
目を伏せ、耳にかかる髪をそっと払う。
「それでも……もう一度抱きしめてって、思ってしまうの。……キスも、できたらって……その先も」
言葉にした瞬間、顔が熱くなる。でも、ベルは変わらずそこにいてくれる。
小さな体を抱きしめ、胸に押し当てた。
レオンは、あの夜「順番を間違えた」って言っていた。
きっと、いまはその想いを律してくれているのだろう。
(……でも私、そろそろ限界かもしれない)
◆
レオンはひとり静かな寝室に戻っても、彼女の手の温もりが掌に残ったままだった。
(……今夜は特に、危なかったな)
ほんのり潤んだ瞳。
そっと握り返された指。
その笑顔に、心も身体もかき乱されそうになった。
(いっそ、もう……なんて)
でもすぐに思い直す。
(……だめだ)
あの夜、セレナが震えていたこと。
自分の不甲斐なさに打ちのめされ、「順番を間違えた」と悔いたこと。
(ちゃんと守るって決めたんだ)
なのに、彼女に触れられるだけで、名前を呼ばれるだけで揺らいでしまうなんて。
(……本当に、反則だよ、君は)
ベッドに身を預け、溜息をつく。
目を閉じれば、あのときの微笑みがまぶたの裏に浮かび上がる。
ひとりきりの夜が、想いを募らせる。
◆
翌朝。
執務室では書類が次々と片付けられていった。
「…………」
アレクは眉をひそめる。
ペンの音と紙の音だけが静かに響いていた。
(……また、か)
『嫉妬』の話をした後くらいは、明らかにご機嫌だったのに。
(この処理速度、完全に“自制モード”だな)
横目でレオンを見ながら、アレクは心の中でそっと応援していた。
◆
その頃、セレナは小さな決意を胸にしていた。
「……待ってるだけじゃ、ダメなんだよね」
その声には、ほんの少しだけ強さがにじんでいた。
けれど胸の奥は、甘くざわついたまま。
「私から……ちゃんと伝えたい。もし今夜、来てくれなかったら……私の方から――」
その意味は、よくわかっていた。
(……あの夜から、ずっと……胸の奥が、続きを望んでる……)
レオンのあの表情を思い浮かべる。
(レオンの声、ぬくもり……全部、離れてくれない。このままじゃ眠れないよ)
小さく息を吸い、拳を握りしめる。
◆
その夜ーー
レオンはいつもの時間に部屋へ。
手を取り、穏やかな時間が流れる。
けれど、やはり物足りなくて。
「セレナ?」
レオンの声が落ちてくる。
「眠れないの?」と優しく問うその瞳は、真っ直ぐで、誠実だった。
けれどセレナの胸には、“今夜こそ”という希望が消えずに残っていた。
……しかしレオンは、ただ髪を撫でて「おやすみ」と囁くだけだった。
椅子が引かれる音がする。
「ありがとう、セレナ。おやすみ」
その言葉はやさしくて、だけどどこか、距離を感じた。
(今日こそ言うって、決めてたの……!)
意を決して、セレナが声を発する。
「……レオン」
「ん?」
レオンが振り返る。まっすぐに蒼の瞳がこちらを見つめていた。
(今言えば、変わるかもしれない)
ソファからゆっくり体を起こし、セレナは一歩踏み出す。
「……このまま、行っちゃうの?」
声が震えた。気持ちがあふれそうで、制御できなかった。
レオンの瞳がわずかに見開かれ、室内の静寂が心を打つ。
セレナはゆっくりと彼に歩み寄る。
(あの夜の記憶は、幻なんかじゃない)
レオンの手をそっと取る。
彼は何も言わず、けれどその手は離さずに、むしろやさしく握り返してくれた。
そしてセレナはそっと胸元へ顔を寄せる。
鼓動が早くて、熱くて――
小さく、でもはっきりと伝える。
「私……レオンに触れたいの……」
その言葉が、ふたりの空気をゆっくりと変えていった。
あたたかくて、甘くて、確かな“はじまり”を告げるように――
次の瞬間、彼の腕に抱きしめられた。
胸の奥で熱い何かがふっと灯る。
レオンの体温が、肌越しに伝わってきて、心まであたためてくれる。
「そんな風に甘えたら……もう、我慢できないよ」
優しく囁かれて、レオンがそっと顎を持ち上げた。
触れるだけの軽いキス。
それはすぐに、熱を含んだ深い口づけへと変わっていく。
「っ……」
背中を撫でられるたび、身体が自然と震える。
セレナは恥ずかしさに身を縮めそうになる。
「セレナ……」
レオンの声が、かすかに掠れていた。
何度も重ねられる唇に、想いの深さが伝わってくる。
「……好きだよ、セレナ。どうしようもなく、君を求めてる」
その声に、胸がぎゅっと締めつけられる。
気付けばセレナは、彼の腕に身を委ねていた。
レオンはそのまま、彼女をそっと抱きかかえ、ベッドの上へと優しく降ろす。
「……触れても、いい?」
彼の瞳が真っすぐに問いかけてくる。
セレナは、こくんと小さく頷いた。
――はらりと夜着の紐がほどけ、肩を包んでいた布がふわりと揺れた。
その音さえも恥ずかしくて、思わず身を縮める。
けれどレオンは、そっとセレナの肩に手を置き、やさしく微笑んだ。
「……セレナ、震えてる。怖い?」
「ううん……大丈夫……」
その言葉にレオンはふっと笑みを浮かべ、額にそっと口づけた。
彼の指先が鎖骨をなぞるように滑り、背中へと回っていく。
胸の奥が高鳴って、どこに触れられたわけでもないのに、鼓動が速くなる。
やがて、柔らかな布越しにレオンの手が重なった。
そのぬくもりに、思わず息が漏れる。
けれど、レオンの指先が服の上からゆっくりと撫でるたびに、胸の奥がじんわりと熱を帯びていくのがわかった。
(どうして……こんなに、熱いの……?)
ふと顔を上げると、レオンの瞳と視線が重なる。
彼の眼差しは真剣で、どこまでもやさしくて――それだけで、涙がこぼれそうになる。
「……レオン……」
名前を呼ぶだけで、胸がいっぱいになった。
彼の手が、そっとセレナの頬に触れる。
そのまま、何も言わず唇が首筋に落ちてきた。
吐息が、肌に触れてくすぐったいのに、どこか心地いい。
(……あたたかい……)
思わず、彼の背中に腕を回した。
そのぬくもりが、これから起こるすべてを包んでくれるような気がした。
レオンが、そっと耳元で囁く。
「……セレナと、心から繋がりたい」
その一言に、セレナの心は決まっていた。
「私も……レオンと……ひとつになりたい」
小さな声だったけれど、それは確かな想いのこもった言葉だった。
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