昼下がりの中庭には、やわらかな風が吹いていた。
セレナは花壇のそばに膝をつき、小さな花のつぼみにそっと目を落としている。
「……私にできること、なにかあればいいのに」
ぽつりとこぼした声に、後ろから優しい声が重なる。
「もう十分すぎるくらい、奥様の存在は屋敷を明るくしてくださってますよ」
ふいに振り返ると、アレクがそこに立っていた。
優しく笑うその顔に、セレナも自然と表情をほころばせる。
「私は……まだ何も役に立てていないのに」
「いえ。最近、公爵様の表情がずいぶん和らいでおられます。きっと、奥様のおかげです」
「え……」
思わず顔が熱くなり、視線を落とす。
アレクは少し肩をすくめながら、目を細めた。
「おそらく、公爵様にとって一番の癒しは“奥様の笑顔”なんでしょうね」
その一言に、セレナは思わず小さく笑ってしまった。
(……そうだったら、嬉しい)
穏やかに笑い合う二人の姿を、そっと見つめる影がひとつ。
◆
アーチの陰から中庭を眺めていたレオンは、不意に足を止めていた。
理由はわからない。ただ――
セレナが笑っていた。
その笑顔の先にいたのは、アレクだった。
(……あんな表情、見たことがない)
ふと、心の奥がざわついた。
思い出すのは、セレナが少し照れたように笑った横顔。
穏やかに会話を交わし合う様子。
その中に、自分の知らない彼女がいた。
(……どうして、そんなに気になる)
自分でも戸惑うほどの感情が、胸の中で渦を巻いていた。
◆
執務室に戻っても、レオンの手元の書類はほとんど進まなかった。
ノックの音がして、アレクが入ってくる。
「公爵様、今日の報告書です」
机に書類を置いたあと、レオンの表情をちらと見て、小さく首を傾げる。
「……体調でも崩されましたか?」
「……何でもない」
間をおいて返されたその一言に、アレクはニヤリと笑った。
「なるほど。……中庭ではお声をかけてくださいませんでしたね。近くにいらしたの、気づいてましたよ」
レオンの手が止まる。
「……セレナと、何を話していた」
その声に、アレクは目を細めたまま、軽い調子で答えた。
「花のことですよ。奥様、素敵な笑顔をされていましたね」
レオンの手に力が入る。紙が少しだけ音を立ててしなる。
アレクは、それを見逃さない。
「……もしかして、公爵様。嫉妬、ですか?」
「余計なことを言うな。さっさと戻れ」
「ははっ、失礼。けれど――素直になるのも悪くありませんよ」
◆
レオンは、夜の静寂に包まれた廊下を静かに歩き、セレナの部屋の前で立ち止まった。
いつものように控えめにノックすると、小さく「どうぞ」と返ってくる声に、扉をそっと開く。
ソファに座っていたセレナはレオンを見つけると、ふわりと笑みを浮かべて、やさしく手を差し伸べた。
その手を取る仕草は、今ではふたりにとって自然な日常になっていた。
――けれど、今夜はどこか違っていた。
何気ないふりで手を握った瞬間、セレナのぬくもりがじわじわと染み込むように広がって、レオンの中にあった“認めたくなかった感情”がゆっくりと崩れ落ちていく。
(……今日、笑っていたのは)
昼間の庭での光景が、ふと脳裏に甦る。
アレクと並んで笑い合っていたセレナ。
その表情は、自分の知らない顔だった。
(あの笑顔が……アレクに向いていたと思うと)
『嫉妬、ですか?』
アレクの言葉が思い返され、咄嗟に「違う」と心の中で否定する。
けれど打ち消せば打ち消すほど、その気持ちが浮かび上がってくるのだった。
誰に向けて笑っていようと、ただの“癒しの力を持つ存在”なら、気にするはずがない。
それだけのはずだったのに。
でも今、こうして手を繋ぎ、彼女の瞳をまっすぐ見つめた瞬間――
(……もう、隠せない)
この手に触れたいと思ったのは、力を得るためなんかじゃなかった。
あのとき無意識に彼女の唇に触れようとしたのは、
ーーただ、彼女に触れたくて、しかたなかったから。
「セレナ……」
その名を呼ぶ声は、少しかすれていた。
けれどセレナは、いつもと変わらずに、安心したような微笑みを向ける。
(……やっぱり、俺は――)
胸の奥でくすぶっていた感情が、ようやく言葉の形を持つ。
もう否定なんてできない。
触れて、見つめ合って、それだけで心がとろけてしまう――
それが恋でなくて何だというのか。
その瞬間、レオンははっきりと“恋に落ちていた”のだと気づいた。
一度気づいてしまえば、その想いはもう止めようもなく溢れ出してくる。
もっと触れたい。
もっと深く知りたい。
この柔らかな存在の奥にある、すべてに手を伸ばしたくなる。
彼女の息づかいも、声も、揺れる心までも、全部――
(……知りたい。手に入れたい。……全部、俺のものにしたい)
◆
レオンは、静かにセレナの手を握り返した。
(……公爵様?)
目が合った瞬間、セレナの心が跳ねる。
その眼差しは、今まで以上に熱を帯びていた。
まるで――迷いながらも、どうしても触れたくて仕方ないような目だった。
それは、今までのただの“癒し”を求める儀式ではない。
手に重ねられた一指一指に、彼の感情が乗っているのを、セレナは確かに感じた。
思わず、息を整えるように瞬きをする。
そして、次の瞬間――
「……ただ君の力を借りたいだけじゃない」
レオンは一瞬だけ、ほんの少しだけ視線を伏せた。
「……そんな理由だけじゃ、もう足りない」
そのまま彼は、セレナの指先をそっと持ち上げる。
その手のひらに、まるで想いを捧げるように、唇を押し当てた。
ぬくもりとともに、レオンの想いがそっと染み込んでくる気がして――
「……っ」
セレナは、自分の心臓が一瞬止まったかのように感じた。
その直後、レオンの腕がそっと伸びてきて、彼女の身体をやさしく引き寄せる。
「……もっと、こうしていたいって、思ってしまう」
抱きしめられた胸元から伝わる、温かい鼓動。
甘く震える胸の奥。
このときめきは、もう癒しの力では説明できなかった。
(……呪いを解くため、だけじゃないの……?)
ふと湧き上がる疑問さえも、彼の鼓動がすべてを包み込むように打ち消していく。
(……もしかして、公爵様も)
(私と……同じ気持ち……?)
セレナの胸の奥に、またひとつ、やわらかな灯がともる。
重なり合う想いの中で、夜は静かに、ゆっくりと更けていった――
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