この世界に転生して、しばらく経つ。
侯爵家ではどれほど忙しくても“家族三人で毎日朝食を囲む”のが習慣で、最初は少し距離を感じていたお父様やお母様とも、今では自然に笑い合えるようになっていた。
(この夫婦、本当に“ルシフェリア”を大事にしてくれてる。複雑な気持ちはあるけど……居心地は悪くないのよね)
「ルシフェリア、頭を打ってから時間が経ったが、体の調子は?」
「お父様……もう完全に元気です」
「それはよかった。それで……彼はいつ婿入りしてくれるんだ?」
「ーーぶっ!!」
ちょうど紅茶を口に含んでいた私は、盛大に吹き出してしまった。
使用人が慌てて近づいてきたが、お母様がそれを制し、代わりに私の横へとやってきて――
ふわりと笑みを浮かべながら、ハンカチで口元を拭ってくれる。
そしてそのまま耳元に顔を近づけて、そっと囁いた。
「……応援してるわ。アピール、がんばりなさい?もっとルシからも行かないと!」
「――ぶっっ!!」
「まぁ、ルシったら……!」
最近の家族の様子は、どう考えてもおかしい。
(……侯爵家ってもっと堅苦しいはずなのに。なぜ普通に“恋バナ”みたいなノリなの……?)
そして一番の原因は――
(うちの家族に、一体何したのよティオ様……!?)
◆
“研究室に行くとろくなことにならない”そう思っていたけれど。
昨日はまさかの“ティオ様が自室にやってくる”という予想外の事態が発生した。
(ずっとドキドキしっぱなしで……完全に手のひらで転がされてる……冷静になれ、私)
だから今日は、先手を打つことにした。
ーー部屋に来られる前に自分から研究室へ行ったほうが安全だと考えたのだ。
(……でも、ここも結局は逃げ場じゃない気がする……)
案の定、今日もティオ様は甘かった。
隣に椅子を寄せてきてやたら距離は近いし、ふいに向けられる瞳は熱を帯びている。
そして突然、耳元に落ちてきた囁き。
「……僕の、可愛いルシ」
「~~~~っ!?」
肩がびくっと跳ねる。
「っ、あ、あのですね、私……ティオ様のものになった覚えなんてありませんけどっ」
必死に言い返すと、ティオ様は目を細めて笑った。
「まだ僕のものになってくれないの?……早く君の唇にキスしたいんだけど」
「………………っ!」
甘くて低い声が体の奥まで響いてくるみたいで、言葉を失った。
(……ダメだ……この人、本気で私を落とすつもりだ……)
でも――嫌じゃない。
(むしろこんな風に毎日囁かれて……もう心なんて、とっくに持っていかれてるのに)
顔を真っ赤にして固まる私に、ティオが優しく笑みを向ける。
彼は自分の膝を軽く叩きながら言った。
「ルシ、おいで」
の言葉に心臓が跳ねる。
けれど、まっすぐな瞳と低い声に抗えるはずもなかった。
「……っ」
小さく息を呑みながら、ゆっくりと近づいていく。
(行かなきゃいいだけなのに、なんで近づいてるの私……っ)
距離が縮まるたびに、鼓動がうるさくなる。
そしてティオ様の膝に腰を下ろした瞬間――
ぎゅっと、腰を引き寄せられた。
「ひゃっ……!?」
耳元でくすっと笑う気配がする。
片腕がそっと背に回され、逃げ道を塞ぐみたいにしっかりと抱き込まれる。
(……ダメ、近い。近すぎて視線の置き場がない……)
「素直に来て可愛いね。……もう僕の事、好きだって言ってくれてもいいのに」
体温が服越しに伝わり、思わず目を逸らす。
「……言わなくても、わかるでしょ」
精一杯の抵抗でそう返したが、ティオ様は笑って私の顎をそっと持ち上げた。
「わかるよ。君の事、ずっと見てるから。でも……言葉が欲しい。君の口から。」
「……っ」
恥ずかしさに耐えきれず、無意識に唇を噛んでしまう。
(全部見透かしてるみたいな顔して……わざとやってるでしょ……)
ティオの指先がそっと唇に触れた。
「噛まないで。可愛い唇なのに……」
なぞるように撫でられた場所が熱を持って、余計に言葉が出なくなる。
(ダメ、こんなの……好きすぎる……)
心で叫びながらも言えなくて、私はティオの肩に顔を埋めた。
ぐいぐいと無言のまま額を押し付ける。
「……ん?」
ティオはくすっと笑って私の背を優しく撫でた。
「ごめん、意地悪しすぎたね」
少しだけ申し訳なさそうな声と共に、ぎゅっと抱きしめてくれる。
「よしよし……でもさ、ずっと“推し”としてしか見てなかったのに。今さらそんな顔するなんて反則だよ」
そう呟きながら撫でる手は、あたたかかった。
「……その顔、僕だけに見せてね。可愛すぎるから」
髪にそっとキスを落とし、私はただ静かに彼の胸に身を預ける――
(もう、ダメ……好き……)
◆
散々甘やかされて自室に戻ったあと、ベッドに倒れ込み枕に顔をうずめる。
(……言えなかった……キスして欲しかったのに)
足をバタバタ動かしながら気持ちを紛らわせる。
(あんな甘い顔で見つめられて……“わかってる”って……!)
枕にこもる声で小さく呟く。
「す……すき……っ」
耳まで熱くなって、思わず叫んだ。
「無理!!今までそんなこと誰にも言ったことないのに!!」
枕をぼふぼふ叩いたあと、深呼吸して息を整える。
「……言おうとするたびに、どんどん好きになってく気がする……明日こそ、ちゃんと言おう……」
そう決意した瞬間、ふとよぎる妄想。
(もし告白して……キスしたら、そのまま止まらなくなったりして……小説も漫画もいっぱい読んでるし、覚悟はできてるけど……!)
枕を抱きしめながらそっと目を閉じる。
月明かりの差す部屋で――
彼女の胸の奥で芽生えた“恋と妄想”は、もう止められなかった。
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