午後のやわらかな陽光が回廊を包む頃、セレナは小さな包みを手にそっと歩を進め、レオンの執務室を訪れた。
扉を叩くと、すぐに返ってきたのは低く穏やかな声――「どうぞ」。
中ではレオンが机に向かい書類を読んでいたが、セレナの姿を見て顔を上げると、筆を置いて彼女に向き直った。
「セレナ。……何か用事ですか?」
「えっと……その、これ……作ってみたんです。よければ、受け取ってください」
そう言って、恥じらいがちに差し出された包みをレオンが受け取った。
丁寧にほどくと、中から清潔な白地のハンカチが現れた。
繊細な花の刺繍が縁を彩り、片隅には小さく“L”の文字が縫い込まれている。
「午前中、リナと一緒に刺繍したんです」
セレナの顔には誇らしげな色が浮かび、どこか晴れやかな気配をまとっていた。
レオンは静かに目を落とし、やがて小さく頷く。
「……とても綺麗だ。ありがとう。大切に使わせてもらいます」
その瞳には一切の飾りがなく、真っ直ぐに感謝の気持ちが込められていた。
彼の胸にふと去来するものがあった。
――この人は、どんな扱いを受けてきたとしても、他人に壁を作らない。
伯爵家でどれほど冷たくされていたか、レオンはもう知っている。
孤独の中で育ち、居場所のない日々を過ごしてきたはずの彼女が、今こうして、使用人にも気さくに接している。
一緒に笑い、相手の優しさを素直に受け止められる――その姿に、レオンは深く心を打たれていた。
「……本当に、ありがとう」
「いえ、私のほうこそ。毎日が楽しくて……夢みたいなんです。何か、気持ちを込めたくて」
セレナは少し照れたように笑い、胸元で指を絡める。
「お忙しいなか、ほんの少しでも気が緩む時間になればと思って……。私にできることは少ないけど、せめて……」
その小さな声に、またひとつ、レオンの心がほどけていくのを感じた。
◆
夕暮れが近づくころ。
レオンは執務室にリナを呼び寄せていた。
書類を片づけながら、彼女に静かに問いかける。
「セレナの様子に、困りごとはないか? 生活に支障は?」
淡々とした口調の裏に、わずかながら気遣いがにじんでいる。
リナは首を振って、優しく微笑んだ。
「はい。セレナ様は、毎日穏やかにお過ごしです。初めてお目にかかったときから美しい方でしたが、最近はさらに柔らかい表情をなさるようになって……顔色もとてもよくなられてきました」
その言葉に、レオンは小さく頷き、ほっとしたように息を吐く。
「……そうか。それは安心した」
だがリナは、少しの間をおいてから、そっと視線を落とした。
「……あの。失礼を承知で申し上げますが、ひとつ――少し、不思議なことがございました」
「不思議なこと?」
「はい。今日、セレナ様と刺繍をしていた時、私、不注意で指を針で傷つけてしまいまして……その際、セレナ様が手を取ってくださったのですが」
言い淀むようにして言葉を選び、続ける。
「その瞬間、痛みも血も、すぐに消えてしまったんです。本当に、魔法のように。まるで何事もなかったかのように……」
室内が静まり返る。
レオンの目が一瞬、微かに揺れた。
「……そうか」
「はい。セレナ様の前では言い出せませんでしたが……お伝えすべきかと思い、こうして参りました。ご報告が遅れてしまい、申し訳ありません」
深く頭を下げるリナに対し、レオンはゆっくりと目を伏せ、静かに言葉を返す。
「いや……話してくれてありがとう。責めるつもりはない。これからもセレナを、頼む」
リナが部屋を後にしたあと、レオンは立ち上がって窓辺へ向かった。
――やはり、彼女の中には“聖なる力”がある。
あの癒しの力は、偶然などではない。
だがそれでも、彼の脳裏に浮かぶのは、伏し目がちに笑う彼女の姿。
そして、恐れるようにそっと触れてきた、あのぬくもり。
(彼女は……自分の力に気づいているのだろうか)
――あの微笑みを、曇らせたくはない。
そう強く、レオンは胸の内で願った。
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