生まれは、皇都の北。静かな森に囲まれた、小さな子爵家だった。
――リナは、そこで姉として、そして令嬢として育った。
決して贅沢な暮らしではなかったけれど、両親はいつも誇りを持ち、私と妹を大切に育ててくれた。
私は長女として、「しっかりしなければ」と自分に言い聞かせ、幼いなりに必死で役目を果たしてきた。
泣きたい夜も、たくさんあったけれど。
妹は、私よりも四つ年下の、甘えん坊の女の子だった。
今頃、どうしているのだろう。
私が公爵家に仕えることになった日、彼女は目に涙を浮かべながら「すごいね、お姉様」と言ってくれた。
――でも本当は、寂しさを我慢していたのかもしれない。
公爵邸での勤務が始まってしばらくした頃、急に配属先が変わった。
それは、“奥様付きの侍女”という役職。
まだ顔を見たこともない、新たに迎えられるお方の専属だった。
配属の直前、従者のアレク様が静かに言った。
「その方には、特別な事情がある。噂に流されてはいけません。何を見ても、誰にも話してはいけません」
「……それから、奥様の心を何よりも尊重してください」
ただの従順さでは、務まらない。
そのとき、私はそう悟った。
(……私に、できるだろうか)
不安を胸に抱えながら、奥様を迎える準備に取りかかった――
でも実際にお目にかかった奥様は、傷を抱えているように見えたけれど、穏やかで私に対しても壁を作らない方だった。
◆
ーーほんの少し、縫い針を引っ掛けただけだった。
小さな痛みが指先を走り、私は思わず「……あっ」と声を漏らした。
そのとき――
「大丈夫? 見せて」
優しい声が、すぐそばから降ってきた。
セレナ様の声だった。
(汚いと思われたらどうしよう……)
くだらない不安が頭をよぎって、慌てて手を引こうとしたけれど。
彼女はふわりと私の手を包み込むようにして、静かに言った。
「そんなことないよ、見せて」
その一言が、あまりにも温かくて。何も言えなくなった。
白く細い指先が、私の傷にそっと触れた瞬間。
――光が、咲いた。
花のように淡く、けれど確かに、私の指先に降り注いだ。
(……いまのは?)
幻じゃない。だって、あんなに赤くにじんでいたはずの傷が、すっかり消えていたから。
「セレナ様……今のは……?」
私は思わず問いかけた。
彼女は少し戸惑ったように、それでも微笑みながら答えてくれた。
「わからない。でも……助けなきゃって思っただけ。痛みはもう、ない?」
「はい……ありがとうございます。お水で流してきます、すぐ戻りますね」
そう言って部屋を出たあと、ふと思い浮かんだのは、妹の顔だった。
セレナ様は、あの子に少し似ている。
繊細で、まっすぐで――でもきっと、誰よりも強い人。
(……この人を守りたい)
胸の奥にふわっと灯った想いは、言葉にしなくてもはっきりとわかった。
これは忠義ではなく、もっと自然な感情だった。
たとえ誰にも言えない力でも、私は知っている。
そのことを誇りに思おう。
侍女としてではなく、一人の人間として、奥様の傍にいよう。
秘密を抱えていたとしても、怖がる必要はない。
むしろ私が、奥様の味方であり続けよう。
それがきっと、私にできる“姉”としての役目だから。
深く息を吸い、セレナ様の待つ部屋へと戻っていく。
指先には、まだあたたかさが残っていた。
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