やわらかな光が差し込む部屋で、セレナはふと目を覚ました。
窓の外では、すでに陽が高く昇っていて――
(もう、お昼近く?)
そっと体を起こし、あらかじめ準備されていた洗面道具を使って、軽く身支度を整える。
その時、ノックの音がして、リナが朝食を載せた盆を持って入ってきた。
「おはようございます。お疲れは取れましたか? 公爵様が、長旅の疲れもあるでしょうから、朝は無理に起こさずに――とおっしゃっていたので」
「――公爵様が……」
盆の上には、香ばしい焼きたてのパン、温かいスープ、そして淹れたてのお茶。
どれも優しさがにじんでいて、胸の奥まで温かくなる。
セレナがお茶を手にしたその瞬間、
「奥様、身支度も私がいたしますのに……」
リナの一言に驚き、思わずお茶をこぼしてしまう。
耳に馴染みのないその“奥様”という呼び名に、反射的に声が漏れた。
「えっ、奥様……?」
「はい。この屋敷の奥様ですから」
リナは曇りひとつない笑顔でそう言いながら、戸惑うセレナに構わず続けた。
「実は、公爵様から“正式に婚姻が成立したと伝えるまで、お嬢様とお呼びするように”と命じられていたんです。いきなり奥様と呼ばれたら、戸惑われるでしょうからって……。奥様のことを、とても大切に思っていらっしゃるのですね」
「そ、そうなんだ……」
部屋の造りひとつひとつからも、私のために用意されたことが伝わってくる。
ここに、私の“居場所”を作ってくれようとしている――そんな気持ちが、じんわりと胸に沁みて、嬉しくてたまらない。
昨日からずっと、くすぐったいような、心がふわふわするような気持ちが何度も押し寄せていた。
(でも、奥様って……やっぱりまだ、恥ずかしすぎる……胸がむずむずしちゃう)
「……リナ、その気持ちは嬉しいんだけど……できれば、名前で呼んでくれたら」
「はいっ! では、セレナ様と呼ばせていただきますね」
◆
――夜。
穏やかな一日だったはずなのに、胸の奥がそわそわと落ち着かなくなる。
(……“一日一回”って言ってたし、今夜も来てくれるのかな、公爵様)
あの時の温もりが忘れられなくて、ふと思い出すだけで、手のひらが熱を帯びていく。
(おかしいな……ただ手を繋いだだけなのに)
そんなことを考えていると、扉の方から控えめなノック音が響いた。
セレナは思わず肩を跳ねさせ、「どうぞ」と声をかける。
入ってきたのは、昨日と同じ、整った所作で歩くレオンだった。
その姿を見ただけで、顔が熱を持つ。
「……疲れは、取れましたか?」
レオンはそう言いながら、静かにセレナの隣へ腰を下ろす。
昨夜の出来事が頭をよぎって、鼓動が一気に速くなった。
「……はい。ぐっすり眠れて、リナもとても親切にしてくれて……」
「それは、よかった」
レオンの穏やかな返答に、セレナの胸がまたざわめく。
(こんなにどきどきしてるのは、私だけ?)
こっそり彼の顔を見上げると、表情は変わらないのに……耳が赤く染まっていた。
(もしかして……公爵様も、照れてる……?)
その瞬間、レオンがそっと手を伸ばしてきて、彼女の手に触れる。
セレナの体は自然と震えた。
「今日も……手を繋いでもいいですか」
その声は、昨夜より少し掠れていて、それだけで胸が締めつけられそうになる。
「……はい」
頷いたと同時に、レオンの指が、彼女の指の隙間をゆっくりと撫でるように絡みつく。
まるで恋人のように結ばれた手のひらから、温もりがじわじわと伝わってきた。
逸らしたままの視線――でも、その手だけは確かに重なっていて。
(やっぱり、公爵様も……恥ずかしいのかも)
指が、やさしく包み込むようにセレナの手を覆う。
「……本当に、体が軽くなる」
その低い声が耳元に届くたびに、心が震える。
「……私もです。あたたかくて……離れたくないって……思っちゃいます」
ポツリとこぼれたその一言に、レオンの手がピクリと動く。
見上げた視線の先、ほんの一瞬だけ、彼の表情が揺れたように感じた。
(もっと……もっと、この手の温もりを感じていたい)
思わず、指先を少しだけ動かして、ぎゅっと握り返す。
するとレオンの親指が、ごく自然に、甲をそっと撫でてくる。
「……セレナ」
その名を呼ばれた瞬間、胸がきゅっと詰まる。
(どうしよう……さっきより、鼓動が大きい……)
「もう少し、近くに行ってもいいですか」
優しさがにじむ声に、セレナは小さく頷いた。
「……はい」
その返事を聞いたレオンは、手を握ったまま静かに身を寄せてくる。
肩と肩がかすかに触れる距離。
それだけで、セレナの心臓はさらに高鳴った。
(……この時間が、ずっと続けばいいのに)
しばらくのあいだ、ふたりは言葉を交わさず、ただ静けさを共有していた。
でもその沈黙は、不思議と心を満たしてくれる。
(誰かと並んでいることが、こんなにも心地いいなんて――)
セレナは伏せたまぶたの奥で、指を見つめた。
「……そろそろ、おやすみの時間ですね」
レオンの声がやわらかく響き、どこか名残惜しさを感じさせた。
「……はい」
離れていく指の感触に、少しだけ胸がきゅっとなる。
でもすぐに、レオンがやさしく微笑んでくれた。
「おやすみなさい、セレナ」
「……おやすみなさい、公爵様」
扉が閉じ、部屋は再び静けさに包まれる。
だけど、指先にはまだ温もりが残っていた。
胸の奥には、ほのかに灯った光が、やさしく揺れていた。
ベッドに横たわり、セレナは両手をそっと胸に重ねる。
(……まだ、ドキドキしてる)
眠気よりも先に、彼の記憶とぬくもりが心を埋めていく。
(これはあくまで、公爵様の体のため……私の気持ちは――関係ないの)
けれど胸は、それを否定するように熱を残したまま。
静かに、更けていく夜。
やわらかく甘い夢に包まれながら、セレナはそっと目を閉じた。
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