黒色の髪に、黒色の瞳。
その姿は、カルミア帝国では“禍を招く”と言われ、忌み嫌われてきた。
そう言われて育ったのは、セレナ・アルシェリアという少女だった。
伯爵家の次女として生を受けながらも、その存在はまるで影のように扱われていた。
名を呼ばれることも、微笑みを向けられることもない。
両親も、姉も、屋敷の誰一人として、彼女に目を向けようとはしなかった。
まるで、この世に存在しないかのように。
「……おはよう、ミラ」
使用人に声をかけても、返事はない。わずかに強張った表情で、彼女は視線を逸らし、そのまま足早に通り過ぎていった。
まるで、冷たい風を避けるように――。
使用人たちからも、私は透明な存在として扱われていた。
支給されるのは最低限の生活用品だけ。食事も決まって残り物。
それでも、誰の手も借りずに生きる力だけは身についた。
鏡に映る自分を見つめる。
透き通るように白い肌に、影を落とす長い黒髪。どこか虚ろな瞳。
体は細く、肩は頼りないほどに華奢で、着ているドレスもどこか浮いて見える。
(私って、本当にここにいていいのかな……)
ふと、そんな思いが胸に浮かび、気づかないふりをしながらも視線を逸らす。
十八年間。
病弱だった私はずっと屋敷の離れで過ごしてきた。
日々の不調と痛みに耐え、ただ静かに時が過ぎていくのを待つような毎日。
楽しいことなんて、何ひとつなかった。
(……庭園に行こう)
最近、あの場所だけが私の心を和らげてくれる。
今日も、ほんの少しだけ気分がいい。身支度を整え、水と小さなパンを持って、私は静かに屋敷の奥へと足を運んだ。
廊下の角を曲がったとき、ふと立ち止まる。
少しだけ開いた扉の奥から、使用人たちのささやきが漏れ聞こえてきた。
「……またお食事、手をつけなかったそうよ」
「えっ、また? 本当に幽霊みたいよね。あの髪と目、見てるだけで寒気がする」
足が止まる。聞くつもりはなかったのに、耳が勝手に反応してしまう。
「でもまあ、長くはないでしょう?」
「ええ、奥様もおっしゃってた。“黒髪黒目の子は短命”だって」
胸の奥がずきんと痛み、気づけば走り出していた。
昔からこうした話にはなぜか敏感で、聞いてしまったあとには、決まって心に重いものが残る。
『黒髪・黒目の者は長く生きられない』――
これまで何度も耳にしてきた言葉。
もともと弱い体だったけれど、最近はさらに体調を崩す日が増えてきた。
「……やっぱり、そういうことなのかな」
誰にも知られないよう、私の存在そのものが隠されている。
社交の場に出たこともなく、家族と食卓を囲むこともずいぶんと昔のことだ。
父は私について口外しないよう、屋敷中に箝口令を敷いているという。
考えたくもない記憶がよみがえる。私はそれを振り払うように歩みを速めた。
「……今日も、来てくれてるといいな」
──屋敷の裏にある、小さな庭園。
整備されておらず、誰にも注目されないこの場所だけが、私にとって唯一心が安らぐ空間だった。
背の高い茂みのあいだを抜けると、見慣れた小さな姿がそこにあった。
「……今日も、来てくれたんだね」
黒い毛並みの、痩せた猫。
数日前、庭の隅でうずくまっていたところを見つけた。
それから毎日、私はこっそり水と食べ物を持ってきている。
足を引きずり、毛並みは荒れていた。
誰にも話せなかった。
話せば処分されてしまうのがわかっていたから。
「ごめんね……私には、何もしてあげられない」
今日も少し距離があったけれど、数日前よりも警戒心が薄れているように見えた。
私は、そっと手を伸ばす。
「君は、私と似ているね。誰にも知られず、ただ静かに生きてる……」
触れた指先に、ほんのりとした温もりが広がった。
その瞬間、淡く光るものがふわりと立ちのぼったように見えた。
「……え?」
幻かと思った。
けれど猫は、すっと体を起こし――もう足を引きずっていなかった。
確かに、自分の足で立っていた。
「……治ってるの?」
私の言葉に、猫は「にゃあ」と短く鳴いた。
その目には、怯えも迷いもなかった。
(なんで……?)
理解が追いつかない。けれど、そのとき感じた温もりだけははっきりと覚えている。
胸の奥にぽっと火が灯ったような、そんな感覚だった。
この日――私は、生まれて初めて「誰かの役に立てた」と思えた。
それが、自分の運命を大きく変える始まりだったとも知らずに。
☞次の話へ